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戦争の話を聞いた記憶

8月6日。
この日になると、毎年思い出すことがあります。

小学4年生の時、姉のクラスメイトの家によくお邪魔していました。
クラスメイトのお母様は、母よりも少し年上の方で、
母も漬物の漬け方を教えてもらったり、家族ぐるみのおつきあいでした。

ある夏の日、母と姉と一緒におうちにお邪魔していました。

その日はなぜだか覚えていないのですが、
いつも明るいおばさんが、ぽつり、ぽつりと昔の話をし始めました。

最初は「へぇ〜おばちゃん、看護婦さんだったんだぁ」とか、
「クレってどこにあるの?」「どんな字書くの?」と、
いつも通り、思った疑問を口にしては話の腰を折るようなことをしていたのですが、
そのうち、どんどん恐ろしい光景が目に浮かぶような話となり、
子供ながらにこれは黙って聞く話なんだと思いました。

おばさんが、呉に疎開していたのか住んでいたのか、よく覚えていないのですが、
ぴかどんの後、看護婦の仕事をするため、広島に向かったそうです。

向かっていると、
広島方面から人とは思えない姿をした人たちが、
ずるずると衣類を引きずりながら歩いてきた。
よくみると引きずっていたのは服ではなくて、
自分たちの皮膚だったと話してくれました。

川には亡くなった人が浮かんでいて、
水面が見えないほどだったと涙ながらに話してくれました。

あまりの凄惨さに息苦しくなり、
何も言うことができなくなりました。

今思うと、その時が最初で最後(最後かどうかわからないけど)の
戦争を体験した人のお話を直接聞く機会でした。

このお話を聞いた数年後、
今は考えられないことでしょうが、
学校で「はだしのゲン」の映画を観ました。
おばさんに聞いた話がそのまま映像になっているようで、
胸が痛くなりました。

私の母は生まれてはいたものの、幼すぎて
戦争が怖いと思った記憶はないそうです。
焼ける町を乳母車に乗せられて逃げ回った記憶はあるそうですが、
それが戦争と結びつくほどの記憶はないそうです。

父は、記憶のある年齢ではあったのですが、
疎開先での暮らしについてはよく聞かされていたのですが、
戦争で恐ろしい目にあったという話は聞いたことがありません。
話して聞かせておきたいこともあったかもしれないのですが、
幼い娘たちにそんな話はできず、
話を聞かせても良い年頃には親元を離れていたので
話すタイミングがなかったのかもしれません。

私は、戦争を体験した人の話を直接聞き、
2度とこんなことが起きないことを心底願う人の思いを聞き、
自分が過ちを起こさないようにしたいと願うようになりました。
体験した人の言葉は心に重くずしんと響きました。

戦争の話は聞いて気持ちのいいものではありません。
だけど、知っておかなくてはならないこともあると思います。
戦争を起こしたのはなぜか、誰が始めたのか、どうやって終戦を迎えたのか、
結果、誰が得をしたというのかなど、
日本人としてつらい現実も含め、知っておかねばならないと思います。

毎年、この時期になると、
原爆の話から2度と戦争が起こらないようにという話が出てきます。
年に一度、この時期だけでもいい。
戦争が起こらないように願う人の思いが、世界中に届くといいなと思います。

# by Hifumiffy | 2019-08-06 23:44 | ひとりごと | Comments(0)
今年になってから泣き言しか書いていない。


暗い気持ちになるブログなど、誰も読みたくないものでしょうが、
そもそも、読者などほとんどいないこのブログは、
私の心の整理のために書いているようなもの。


今日も泣き言を書くのです。


2月1日に単身赴任を決め込んだ父の残したものが捨てられない。
捨てる必要はないのでしょうが、
あると、見ると、悲しくなってしまうので、
片付けた方がいいんだろうとは思っている。

父が使っていたものだけじゃなく、
父のために用意したメールアドレスも捨てられない。
間接的には父が使っていたことになるメールアドレスで、
父には
「パパさんのメールアドレスとして申請しておくからね」
と伝えたことはあるのだが、
父自身は自分用にメールアドレスがあったことなど覚えていなかったろうと思う。

そんなメールアドレスではあるのだが、
父のために用意したメールアドレスなので、
それを消すことが、私にはできないのだ。




他にも整理しなければならないものがあるのだが、
それらは、いざとなったら姉に手伝ってもらえばなんとかなると思っている。
姉は思い切りよく捨ててくれる人なのである。
決して冷たい人というのではなく、
「ものは少なくしておく方がいい」という考えがあるからだ。

そんな姉の思い切りの良さを思う存分利用して、
父のものを捨てるというなんとなく辛い仕事を姉にやってもらおうとしている。
私はずるい妹なのだ。


そんな姉にはできないことの一つがメールアドレスのことなのだ。

私は個人事業をしており、事業用のドメインを持っていて、
そのドメインを利用して父のメールアドレスを用意した。
こういう作業ができるのは、うちの中では私だけなのである。

でも


つらくて捨てられない。

父宛のめーるすら、
社友会から送られてきている事務的なメールですら捨てられない私には
父のためのメールアドレスを取りやめることができない。

また胃が痛くなってきてしまう。


父が単身赴任し、母も私も寂しい思いをしているのだが、
それをお互いに口にすることも憚りながら暮らしている。

どうしたらいいかなど、相談などできるはずもなく、
一人悶々と悩みながら、今日もまた片付けることができないのである。

# by Hifumiffy | 2019-07-26 23:45 | 家族とのこと | Comments(0)

体調不良

今もまだ、父のいない毎日に寂しさが募ります。

母と二人の生活は、なんとなく気遣いあいすぎて、
気がつくと重苦しい時があります。

父が入院した昨年9月以降、日常といえば日常なのですが、
会いにいく場所がなくなってしまったこと、
帰ってくる日が永遠にこないことなど、
父がいなくなったさみしさを口にすることはお互いに避けており、
それがあまりに不自然で、心が折れそうになるのです。

母は私よりもずっとずっと悲しい思いを抱え込んでいます。
それでも毎日、がんばって生きています。
少しずつ体のあちこちに痛みが出てきたりしているようですが、
まめに病院に行って、体のメンテナンスをしてもらいながら、
元気に生きようと頑張ってくれています。

それなのに、私ときたら、情けないものです。

4月下旬、連休前からみぞおちのあたりが重苦しく、
食事をすることもつらいことがあり、
内科の先生に診てもらいました。

胃薬を変えてもらったり、漢方薬を増やしてもらったり、
少し改善したものの、起きているのが辛い日もあり、
どうにも仕事がすすみません。

もともと心配性ということもあり、
ちょっとしたことが心臓の病気じゃないか、脳の病気じゃないかと不安になってしまい、
あちらこちらの検査をしてもらってもまだ心配でしかたありません。

年齢的にも更年期障害が出てきてもおかしくないお年頃。

ですが、更年期障害の症状は思い病気が隠れている可能性もあるそうで、
いろんな病気の可能性を否定することも必要です。

胸のX線写真、胃カメラ、CT、心電図、大腸がん検査、
すべて大きな異常はなく、みぞおちあたりから上の胸のあたりの痛みの原因はわかりません。

あと、考えられるのは乳腺の詰まりや乳がんなど、
婦人科系の検査が必要なものくらいです。

辛い気持ちを抱えているからか、
とにもかくにも体のあちこちが痛むのです。
ずっとではないのが救いですが、いつ何時、辛い症状が出てしまうかと不安になってしまい、
どこにいくのも億劫で、友達と約束するのも不安です。
守れない約束になりそうで。。。

お年頃もあってのことでしょうが、体の不調が続いています。
こんなことで母に心配かけたくないのに、
こんな状態では心配かけまくりです。。。

# by Hifumiffy | 2019-07-05 01:30 | 家族とのこと | Comments(0)

ブログひとりぼっち

気がついたら、一人ぼっちになっていました。

ブログを始めた頃、
ブログを通して知り合ったブログのお友達(と勝手に思ってます)がいました。

お気に入りのブログのところに登録し、
ちょいちょい覗いていましたが、
ここ数年は、自分自身もこのブログへの投稿頻度が少なく、
他の方のブログを拝読する心の余裕もあまりなく、
特定の一人の方のブログしか読むことがない状態でした。

今年になって、



父が逝き、心が折れ、



ようやく立ち上がってみたら、
特定のお一人の方のブログが閉鎖されていました。



さみしいです。


他のリンク先を拝見してみたら、
はっきりやめますと書かれていたブログや、
やめますとは書かれていないけど、5年以上更新されていないブログばかりでした。

自分勝手に読んだり読まなかったりできるのが、
ブログのいいところなのでしょうが、
お気に入りのブログがなくなってしまったのはとてもさみしいです。

# by Hifumiffy | 2019-06-14 16:50 | ひとりごと | Comments(0)

積丹半島

毎年5月に開催される北海道のイベントに参加してきました。

イベント後に北海道の有志の方に連れて行ってもらう
積丹岬・島武意海(しまむいかいがん)
のドライブはとても心が癒されます。

今年は北海道とは思えないほどの暑さでしたが、
お天気がよく、海の透明度がいつも以上に綺麗に見えました。
b0060091_22590702.jpg
この海岸は、日本の渚百選 に選ばれている岬だそうです。

積丹には取材で行ったことがあります。
30年近く前に取材で連れて行ってもらった時は、
こちらの岬ではなく、神威岬(かむいみさき)の方だったと思うのですが、
どちらもとてもきれいな場所です。

美しい海と空をみているだけで、心が穏やかになれる気がします。

また来年もこの景色に会えることを願います。


# by Hifumiffy | 2019-05-30 23:11 | 旅したこと | Comments(0)

心の整理がつかぬままに

この記事は2019年2月8日に書きました。
父が亡くなり、1週間ほど経った頃でした。
公開する内容でもないと思えることでもあり、ずっと非公開にしていました。

まだまだ寂しさは募るばかりで辛いのですが、
同じような思いをされている方もいらっしゃるかもしれませんし、
心穏やかになるためには
人に話すことも必要なのかもしれないと思うようになってきたこともあり、
公開することにしました。

お話ししたかった方がブログを閉鎖されたご様子で、
もっと早く公開しておけば、
いろいろお話できたのかもしれないという思いもありました。

今更ながらですが、公開させていただきますが、
楽しいお話ではありません。
悲しい思いをされる方もいらっしゃるかもしれません。
どうぞ、ご自身のお気持ちで読むかどうかご判断ください。

ブログを閉鎖された方が来てくださる可能性もありますので
コメント不可にはしておりませんが、
このような内容の記事を掲載したことに対する批判など、
どうかご容赦くださいますようお願いいたします。

2019年5月15日 Hifumiffy




2019年2月1日の夜、父が亡くなりました。
享年83歳、数えで85歳でした。

私は2009年10月に名古屋に拠点を移すことを目的に退職し、
その後、東京の別の会社に就職し、
1年近く、週末だけ自宅に帰る生活を送りましたが、
2011年5月に個人事業を立ち上げ、名古屋で生活するようになりました。
少しでも長く、家族とともに暮らしたいと思ったからでした。

父は長い間、糖尿病を患い、失明の危機をはじめ、たくさんの病気に見舞われました。
10年くらい前には人工透析も始まり、
週に3回、朝早くに家を出て14時近くに帰ってくる生活でした。
一日置きに朝7時半に迎えに来てくれるマイクロバスに乗るため、
透析の朝は5時に起き、
一人でお茶漬けや母が前日の夜に用意してくれたサンドイッチなどを食べ、
どんな天気、気候でも、必ず7時半には家の前に母と一緒に出て車を待っていました。
大変だったと思うのですが、文句も愚痴も一言も言わず、
寒くても暑くても何も言わずに車を待っていました。

透析が始まってからもいろいろあって、脳内出血やら壊死した足の小指の切断など、
たくさんの心配を抱えながら一緒に暮らしていました。

父はそれほど口数の多い人ではありませんでしたが、
昔ながらの男尊女卑の発言も多々あるし、
人を小馬鹿にすることもよく言うし(私には)、
ほんと「小憎たらしいじいさん!」でした。
やめてと言ってるのに氷をボリボリ噛み砕くので、
「ボリボリじじい!」とののしっても知らん顔。
自分勝手なところもたくさんたくさんある父でした。

けれど父はやさしい人でした。
結婚せずに長く付き合う私の彼のことを家族同然に扱ってくれ、
彼のご両親の葬儀にも、不自由な体でありながら参列しようと一緒に行ってくれました。

父と私の彼は、よく話をしていました。
父の話はいつも小難しく、昔の話が多く、
歴史に興味なし、難しい話は苦手な娘たちはあまり話を聞いてあげませんでした。
父は息子が欲しかったのですが残念ながら娘二人でしたので、
なかなか自分の話を聞いてくれる相手がおらず、寂しい思いをしていたのかもしれません。

彼はいろんなことに興味を持つ人で、父の話を聞くのが楽しいと言っていました。
父の話を理解し、いいタイミングで相槌が打てるので、
父も彼に話をするのが楽しかったようです。



昨年の9月5日、いつものカテーテル治療のつもりで行った病院での治療がうまくいかず、
ICUに病室を移され、そこから1週間も経たないうちに
心臓の冠動脈バイパス手術をしてもらうことになりました。

父もある程度は覚悟していたかもしれないのですが、
私は9月のカテーテル治療はできない可能性もあると思いながら病院に行きました。
いざ「カテーテルが通りません」と言われ、その先のことがようやく現実となってきました。

そこからは心臓外科が担当になり、先生から
「このままでは100%死んでしまうのです。
 手術すれば80%生きられる可能性があるんです。
 0が80になるんです。受けるしかないんです。
 お父さんの場合、年齢や血管の状態から手術できないケースもあるのですが
 幸い、この病院はお父さんのような方の手術をすることが多く、
 私もお父さんの手術はできると判断しました。
 絶対大丈夫とは言えない。けれどこのままでは死んでしまうのです」
と説明されました。
その時の重い空気は忘れられません。
父の顔を見ることができず、「パパさん大丈夫?」など、陳腐なことをしか言えませんでした。

それでも父は手術を選んでくれ、その後ずっと病院での生活になってしまったけれど、
ほぼ毎日、母が通い、
数日おきに私が通い、
受験生を抱える姉もなるべく父の元に通っていました。

家にいる時よりもたくさん父と話をしました。
私が行くときは、私がくだらない話をすることがほとんどだけど、
父の昔話を聞いたり、父の考えを聞いたりしていると、
「あぁ、私はこの父の子供でうれしいなあ」
と思いました。

昨年末に、老健と呼ばれる老人保健施設に移りました。
父はとても気落ちしていました。
父方の祖母が老健に長く入り、最期を迎えたのが老健だったからかもしれません。

私たちも父にそんな思いをさせたくはなかったのですが、
家に帰るためにはどうしても階段の上り下りができる必要があったのです。
リハビリを続けられ、透析も連れて行ってもらえるところに入れてもらうしかなかったのです。

その間に、父が帰って来て困らないよう、
トイレの便器を高さの高いものに変えたり、
家の前の階段の段差を低くする工事をしてもらうことにしました。

年末、31日の夕方、父を迎えに行き、
毎年のように家族全員で紅白を見ながらしゃぶしゃぶを食べ、大晦日を過ごしました。
1日は家族全員でおせちを食べ、
いつも通り、父と母は家にいて、私たちは氏神様にお参りしながら遊びに出かけました。
夕飯はまた家族全員でカニすき。
エビカニがそれほど好きではない父はほどほどに食べていましたが、
それでも楽しい時間を過ごせたのではないかと思います。
2日はいつもは姉一家は朝早くに旦那さんの実家に行ってしまうのですが、
今年はたまたま都合が悪く、2日も一緒にすごせました。
何をするでもなく、家にみんないて、ゴロゴロしてたり何か食べてたり、
父にとっては家族と過ごす最後の時間はいつも通りの我が家だったような気がします。
この日は父は老健に戻らねばならず、門限の都合で16時には家を出ました。
これが父が家にいられた最後の時間となりました。

トイレは昨年のうちに直してもらえたので、
父は確かめるように2回くらいはトイレに行ったようです。
喜んでくれたかなぁ。

階段は年明け17日から工事開始となっていました。
工事をしてもらってみたら高さがまちまちで、これはダメ!とやり直しとなり、
本来2週間で終えるはずの工事が3週間かかることになりました。

老健に入ってから、透析の病院以外の病院に連れて行くのは家族の仕事になりました。
その際、少し時間がある時、
階段工事の最中の家の前に父を連れて来てあげたのが、
生前、父が自宅を見た最後となりました。
業者さんの車が止まっていたので、
家があまり見えなかったかもしれないのが心残りです。

父はずっとがんばってくれていましたが、
ふとした時にこんなことを言いました。

「3月まではもたんぞ。
 今月くらいはなんとかがんばれるかもしれんが」

お正月、みんなの前で
「今年は死にません。もし途中で死んじゃったらごめんなさい」
って言ってたのに。

あれは後半のことを伝えたかったからなの?
今でも真意はわかりませんが、
老健で私に言った
「今月くらいはなんとかがんばれるかも」
という言葉通り、父は2月1日に逝ってしまいました。

なんとなく嫌な感じがしたので、
1月31日からの出張を2月1日からにし、
1日の朝、父の様子を見てから行くことにしました。

朝から血圧が低く、寝ているという父。
苦しそうに唸ったりしながら目を開けることなく寝ていました。
呼んでも返事がなく、目を開けてくれません。
今までもたまにそんなことはありましたが、
今日は少し様子が違うような・・・
手を握ったら胸が痛いのか、私の手をぎゅーっと力強く握りしめて来ました。
こんなことはあまりなかったので少し驚きましたが、
また午後になったら起きるかな?
と思うことにして父の元を離れ、北海道に向かいました。

その後、母と電話でやりとりし、
なんとなく様子がおかしいような気がしましたが、すでに旭川から北見に移動中。
すぐには帰れません。

夜、20時55分に電話をした時、母が取り乱しかけていました。
おそらく帰り際の父の様子がよくなかったんだと思いました。
その後、私は夕食を食べに外出しました。

22時32分、母から父危篤の電話がありました。
彼に電話で伝え、老健に行ってもらいました。
そこから私は名古屋に帰るための手配を始めました。
その日のうちに帰ることはできませんが、一刻も早く帰れるよう、
仲間が一生懸命調べ、動き、手配してくれました。
北見から札幌への深夜バスを待つことになりました。

23時42分、姉からの電話がなりました。絶望しかありませんでした。
父が亡くなったことの連絡と、解剖するかどうかの確認でした。

そこからは泣かないように泣かないようにと思いながら、
名古屋まで移動しました。

家に着くと、こらえきれず大声で泣きました。
父の死に目に立ち会えなかったひどい娘です。
父の様子がおかしくなってきたことに気づいていたし、
嫌な予感もありました。
医学を勉強していないなりに、父の最期が近いことを感じていました。
それでも自分のことを優先し出かけてしまい、出先で父の死を知るなんて。

なんのために帰って来たのか、謝っても謝りたくても父はいません。
後悔しかないのです。
精一杯やってきたとは思えないのです。
最期に父のそばにいないなんて、親不孝すぎるのです。

父の死に顔は安らかでした。
苦しかったと思うけど、その時はもう安らかな顔になっていました。
前の日に握ってくれた手も、熱があった額も、ひんやり冷たく、
さすってあげても暖かくなることはありませんでした。

父に会いたいです。父と話しがしたいです。
しばらくはかなわないけど、
いつか私も父と同じところに行くときになったら、
また父の子供にしてください。
言い合いながらも仲良し親子でいたいのです。

長い間ありがとうね。パパさん、大好きだよ!

# by Hifumiffy | 2019-02-08 13:41 | 家族とのこと | Comments(0)
あけましておめでとうございます。
年が明けたと思ったら、もう8日でした(^^)

どなたかのTwitterで、
家族で集まると、男は働かず飲んで話していれば良いような雰囲気になり、
女ばかりが働きまくることになるから実家に帰ることを拒否したいというような話がでていました。

うちは父以外は母と娘二人、
家族みんなで集まると、やはりいつも3人だけが働いているようで
どんどん腹が立ってきます。

姉の子供はお兄ちゃんと妹。
中学3年生のお兄ちゃんはなぜかよく働く。
中学1年生の妹は、ちゃっかりお父さんとべったりして手伝おうとしない。

かわいい姪っ子だが、この時ばかりは小憎たらしく思えてきます。

毎年30日の夜から家に泊まってくれるのだが、
1日の夜には背中の痛みもピークに達し、立っているのも座っているのも辛くなる。
年のせいとは言わせない!
毎回、洗い物を担当する私は、背中がバリバリにいたくなってしまうのです。

今年は、背中は痛いし、部屋が暑くてなんとも我慢できないくらいになり、
途中で部屋を抜け出して、一人自分の部屋で涼んでいたりと変な感じ。

と思ったら、4日の仕事始めはなんとか無事動けたのですが、
5日には発熱。しっかり風邪をひきました。

あぁあ。年明け早々これです。
最初の土日は自分のシステムの改良をもくろんでいたのに、、、

毎年、お正月過ぎには必ず風邪をひきます。
母は今年は風邪は引かずに蕁麻疹がでまくりました。

お正月、楽しみなんだけど、そろそろ苦痛の方が大きくなって来ました。
来年も楽しみにできるといいんだけど、どうかなあ。

# by Hifumiffy | 2019-01-08 20:31 | 家族とのこと | Comments(0)

2018年に思うこと

2018年は我が家もいろいろ大変でした。

9月5日に一泊二日でカテーテル治療をしてもらって帰ってくるはずの父は
今も自宅には帰ってこられません。

カテーテルが通らず心筋梗塞を起こしICUに運ばれ、
「このままでは100%死にます」と言われ、
「できるかぎり早く手術室を確保しますので、冠動脈バイパス手術をしましょう」
と言われ、胸を開いての大手術をすることになってしまいました。

数日後に手術をしてもらい、
ありがたいことに、手術は無事終わったのですが、
その後、リハビリを続けているものの、
歩くことも一人でトイレに行くこともできなくなりました。

週に3回透析に行く父は、どうしても家の出入りをする必要があり、
玄関前のわずか2段の階段の上り下りができないので
帰ってきてもらっては困るのです。

車椅子での上げ下ろしも考えましたが、
「女性の力ではかなりの負担になるので危険です」と言われ却下。
毎日のトイレの世話なども考えると、私が仕事を辞めて手伝うしかなくなります。
それでもいいといえばいいのですが、
父と母が私のことを心配してしまい、これまたストレスが心配で却下。

あれから間も無く4ヶ月。
父はだいぶ立ち上がれるようになってはきたのですが、やはり階段は難しく、
段差がもう少し小さければなんとかなりそうとのことで、
階段を作り直すことにしました。
1月後半から工事の予定。
これで父が階段の上り下りが少しの介助でできるようになってくれることを
願うのみです。

今回、父のこともですが、母のこともいろいろ考えることが増えました。
見た目は若く見られることが多い母なのですが、やはり歳は歳。
ふとした時に足元がふらついていたり、
めまいを起こして倒れそうになっていたり、
「あぁ、母も歳をとってるんだなぁ」と思いました。

父がいないので、今までのように家をあけることはあまりできません。
一人だといろいろ考えてしまうだろうし、さみしいだろうし、
私が帰ると堰を切ったように喋り続ける母をみていると泣きそうになります。

父の元に毎日のように通う母の体も心配ですが、
父がいなくて寂しい毎日をすごしている母の心も心配です。

何もできない自分がなさけないけれど、
けれどいつも通りでいる方がいいような気がしているのです。
少し?わがままで自分勝手な私がいつもの私。
母もあきれながら、面倒だと言いながら、
いつも通り私と言い合いをしながら少しは気が紛れてくれるといいなぁと思うのです。

年末、31日の夕方、父が一時帰宅できそうです。
我が家は毎年31日の夜からごちそうが始まります。
1日もみんな揃っておせちを食べ、夜のごちそうもみんな揃って食べられる。
2日には姉一家はあちらの実家に行ってしまうけど、
父は2日の夕方までは家に居られる予定。

よかった。
本当によかった。
このまま何事もなく父が帰ってこられることを切に切に願っているのです。

# by Hifumiffy | 2018-12-27 03:22 | 家族とのこと | Comments(0)

とりとめのない話

父はまだ入院中です。
こんなに長く入院してたのは初めてのことで、
なるべく普段通りの生活を送るように心がけてはいるものの、
父のいない家はさみしく、なんとなく元気が少なめな我が家です。

ほとんど毎日、父のところに行く母。
「父がさみしいだろうから」と言いつつ、
母もさみしいんだろうなぁと思います。

「長丁場になるだろうから、無理しないようにしないとね」
と言いつつも、ほぼ毎日、病院に顔を出している母。
鬱陶しいと思うこともあるけど、
母の強さと優しさは本物なんだと改めて思ったりしています。

本物って何?っていうと。。。

私も人から見ると比較的優しい人に見えるそうなのですが
私の優しさは自分勝手なものなので、
本当の優しさではないと思うのです。

母の優しさの半分くらいは私にもあるといいな(^^)

父は毎日つまらなさそう。
それに食事が美味しくなくて、食事の時間が苦痛になってきているようです。

病人に美味しい食事ってあんまりないけど、
毎日おかゆ、毎日ヨーグルト、毎日薄味ばかり。
確かにちょっと気の毒です。。。

美味しくないからというだけでもなく、
食欲がほとんどないのかもしれない…
年も年なので、無理して長生きさせて欲しくはないと思っているらしく、
万が一の時の延命措置は不要と言うし、
食事も無理してまで食べたくないのかもしれません。

少しでも長く一緒にいたいし、もう少し頑張って欲しいと思うけど、
辛い思いをしてまで頑張ってって言っていいのかどうなのか。

まさかの手術からの長期入院生活。
いろいろ考えさせられることばかり。

私は家族といる時間より、自分の時間を大切にしてきました。
高校卒業後、進学のために上京し、
そのまま東京で生活をし、なかなか親孝行をしようともせず、
人生の大半を自由気ままに生きてきました。

結婚もせず(できず)、子供も持たず(持てず)、
親に心配かけたままこの年になってしまいました。
せめてもの、本当にせめてもの親孝行は、
なんとか一人でも仕事ができるようになったことをわかってもらい、
生活と仕事の両立ができるようになった今を見てもらうこと。
くらいだと思っているのです。

仕事もしてるけど、父のところにも行けるんだよ!
ということを知って欲しくて、
なるべく父のところに行くようにしています。

父のところに行き、なんてこともない話やくだらないことを話し、
「もっと本を読め」「新聞を読め」
とあきれられながらも父が笑ってくれるとホッとします。

早く帰ってこられるといいな。
早く帰ってきて欲しいな。

思いが伝わるといいなと思います。

# by Hifumiffy | 2018-10-26 22:44 | Comments(0)

大きな手術

先月上旬、父が突然大きな手術を受けることになりました。

心臓のカテーテル治療だったはずが、検査段階でカテーテルが通らなくなり、
心筋梗塞を起こして治療を中止し、そのままICUに運ばれました。

今までにも何度かカテーテル治療をしていただいていたこともあり、
本人も家族もそれほど心配せずにいたので慌てました。
すぐに言われたのが
「カテーテルはもうできないので、
 開胸手術しかありません」
ということでした。

しばし呆然でした。
何のことかわからない…わかりたくないといったところでしょうか。
頭が真っ白になったままでした。

が、ICUに運ばれた父を見て、事の重大さに気がつきました。

「このままでは死んでしまうんだ」

カテーテル治療をする前から、
担当の先生から「次に詰まったらちょっと厳しいかもしれません」とは言われていましたが、
こんなことになるとは思いもしなかったのでした。

不安なまま3日間ICUで面倒見ていただき、
何とか病棟に戻してもらえることになりました。

その間も先生方には手術の計画を考えていただいており、
少しでも早く手術ができる日程の確保をしてくださいました。

家族とともに説明を受ける日、
心臓外科の先生から
「このままでは100%(死ぬの)です。
 手術もかなり難しいものなので20%の割合でダメなこともありますが、
 100%が20%になると考えてください。
 迷っていられないんです。
 あなたの場合、病院によっては手術を受けてもらえないこともある難しいケースなんですが、
 幸い、この病院は他の病院に比べてあなたと同じようなケースの患者さんが多く、
 手術例もそれなりに多いので、手術できると判断しました。
 絶対ということは言えない。
 けれどかなりの確率で何とかできると考えています。
 このままでは100%なんですから20%で考えましょう。」
と言われました。

正直、父にかける言葉が見つかりませんでした。
怖いだろうに、でも受けなければ死んでしまうのです。
受けるしかないのですから。

「パパさん、大丈夫?怖いよね?受けるしかないって、大丈夫?」
そう声をかけるのが精一杯でした。
父も
「受けるしかないだろう」
というのが精一杯でした。

そして手術日。朝から8時間を超える手術をしていただき、
ほぼ予定通りの箇所をつなぎ、父は命をつないでいただき帰ってきました。
ICUに3日、集中看護室に4日、
それから一般病室に戻してもらえました。

が、やはりなかなかうまくはいかないもので、
眠い日が続いたり、脚の痛みがひどかったり、褥瘡になったり、
すぐに元の生活に戻せるとは思えない状況でした。

ようやく車椅子に座っても血圧が低くなりすぎることも少なくなり、
転院することになりました。
リハビリと透析が中心の入院になるので、
循環器内科や心臓外科がない病院です。

この病院も毎回お世話になっている病院なのですが、
今回は大丈夫かな?
今までよりも年は取っているし、体力がないし、
でもうちに帰ってくるには
・自分でトイレに行けること
・玄関の段差2段と、玄関の外の段差2段を自力で歩けること
が必要条件です。
母と私では父を抱えて降ろすことなどできません。
ましてやトイレに座らせるのも難しいでしょう。

昨日転院したものの、うちに帰ってくるまでには
まだ少し時間がかかりそうです。

父がまた家に帰ってくつろげる日が来ることを信じて、
父も私たちもがんばるしかありません。

たおれないように。。。がんばろう。

# by Hifumiffy | 2018-10-05 14:13 | 家族とのこと | Comments(0)

2007年桜とともに…


by Hifumiffy