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15年を過ぎました

気がつけば、このブログを書き始めてから15年を過ぎていました。

初めてのブログ。
「ブログって何だろう?」
という気持ちで始めたブログ。

今では当たり前のようにブログはあって、
今はブログよりLineやInstagramのようなSNSが主流となってて、
なんだかブログももう終わってもいいのかしら?
なんて思ったりもしています。
(使い方によるので、私の場合はなんですが)

それでも初めてのブログはどうしてもやめられないのです。

母にもブログを教え、自分で好きなこと書いていいよと言ったら、
楽しそうに家族の話をちょいちょい書いていましたが、
今はそれもすっかり廃れ、放置されています。

父が逝ってしまい、今ブログを見ると、
母は辛いだろうし、どうしたものかと少し考えてしまいます。

けれど、私は母の書いたブログの記事が好きなのです。
母らしい、
辛いことも前向きに笑顔で対処してきた母らしい、
優しい気持ちになれる母の言葉は、
このまま誰が読まなくても私のためだけに残しておきたいと思うのです。

あまり放置していると消されてしまうような気もするし、
これからは私がちょこっと書いてみようかな?

年の初めはなんとなく雑談です。

今年もたまーに書くくらいだと思いますが、
うっかりここにきてしまったあなた様、
どうぞよろしくお願いいたします101.png

# by Hifumiffy | 2020-01-09 20:55 | ひとりごと | Comments(0)
12月7日に、札幌で開催された医療関係のイベントに参加してきました。
こちらのイベントには年に数回、参加させていただいています。
今回もどのテーマも「これは医療関係者以外のたくさんの方に聞いてほしい」と思う内容でした。

サポート範囲が桁違いに広い北海道の病院が抱える問題についての2つのお話がありました。

100km前後の搬送が必要は患者さんが多い「医療過疎」と言われる地域の患者さんは、
症状があっても我慢してしまう人が多く、
結果、重篤化してしまうというお話は切ないけれどそれが現実なんだと感じました。
その患者さんをどのように救えるようにするかというお話は、
医療の知識は全くない私でも聴き入っていました。

今後、どんどん高齢化が進む日本。高齢者の運転が問題視されています。
地域によっては車なしではどうにもならない人もいるという今の現状をどう変えるかというお話は、
どの地域であっても考えなければならない課題だと思いました。

うちも高齢の母がまだ運転をしているので、他人事ではありません。
名古屋市内に住んでいるので公共の交通機関を使えば行けるところはたくさんあるのですが、
長く歩くことや階段、重い荷物を持っての移動は体力的にはかなり辛くなってきているでしょうし、
今までの生活習慣はそう簡単には変えられませんし、変えたくないという母の気持ちも痛いほどわかります。
母が免許を返してもいいと思えるようにするにはどうしたらいいのか、姉とよく話していることです。

身近な話題で、本当に頭がいたいことばかり。
たくさんの方に聞いてもらい、知ってもらい、実現できるよう動き出すことができればと心から思いました。

# by Hifumiffy | 2019-12-10 12:48 | ひとりごと | Comments(0)
なぜか忙しくなってしまいました。
けど、まだ大丈夫。

本当に忙しくてどうにもならなくなっていると、
感情がなくなる。

怒りんほの私が怒らなくなり、
笑うことももちろんなくなる。

お腹は空いているのかわからないけど、
何かしら食べることは忘れない。

けれど、





突然大声で泣いている自分に気づく。




夜中の3時過ぎ、


パソコンだらけのオフィスに一人きり。

頭で考える仕事だけど、必死すぎてか
何が何だか考えることもなく、
画面を凝視し、ひたすら手を動かし、システムが動くように作り上げている虚しさ。


そんな生活を2年、3年、それ以上、続けていた。



何のために生きているのか、
考える余裕はないのに、
あまりの暮らしぶりに感情が先に悲鳴をあげるのかもしれない。

気がついたら大声で泣いていた自分におどろいた。


あの時、気づかなければ死んでいたかもしれない。
生きている意味などまったくみつからなかった。

親がどうとか、
ましてや仕事がどうとか、
全く考えもしなかった。

ただ楽になりたかった。


二度とそんなことにならないよう、
自分のことを大切に思ってくれている人がいることを、
親がそばにいればきっと忘れない。

そう思って帰ってきたのかもしれない。

年老いた親の心配もあったのは本当のこと。

だけど、





自分を大切にするために親元に帰りたかったのかもしれない。


生きがいもなく、生きる楽しみもなく、
「仕事ができなければ私のことなど大切に思ってくれる人はいない」
と思うような生活は、
決して、決してしてはいけないのです。


だから、今も忙しいけど、
そばに「本当に大丈夫?ちゃんと寝てる?」と心配してくれる母がいる今は、
忙しくても大丈夫。

母を一人にしてはいけない。
一人にしたくないから、
がんばりすぎないことを選ぶ勇気が持てる。


だから今は忙しいけど大丈夫。
そう、大丈夫。

# by Hifumiffy | 2019-09-28 23:20 | ひとりごと | Comments(0)

納得できないこと

9月9日に乗るはずだった飛行機に乗せてもらえなかった理由が納得できず、
航空会社のスタッフの方に確認をお願いしたところ、
今日、電話で連絡が入り、
航空会社のミスであったことを認め、謝罪されました。


今回、9月8日に札幌日帰りの予定でした。
名古屋は悪天候により変更などが生じる可能性のある空港には入っていなかったのですが、
17時頃、帰りの便が欠航になったため、急遽取り直しをすることになりました。
その場にいたお友達皆さんの協力のおかげで
なんとか9月9日の20:10発の便の残り1席を確保し、帰れる予定が立ちました。

8日はホテルに泊まり、
9日はチェックアウトしてすぐに新千歳空港に移動し11時半には空港にいました。
仕事は持ってきていたので、ラウンジで仕事しながら時々飛行機の発着状況を確認し、
何かあったらすぐに対応できるようにした方がいいと思ったからでした。

18時過ぎ、iPhoneのWalletにチケットを登録していたので
予定の便が遅延となり、20:50発になることを知りました。
念のため航空会社のホームページも確認し、20:50発に遅延が決定していることを確認。
チェックインの期限が「出発時刻の20分前までに」と書かれていることも確認しました。

20時15分頃、チェックインしに行きましたが
チェックインしようとするとエラーとなり、カウンターに行くよう言われました。

するとカウンターのスタッフの方から
「チェックインの締め切り時刻を過ぎているので乗れません」
と言われました。
「20:50発の20分前までであれば20:30までにチェックインすればいいはずですよね?
 今はまだ30分にもなっていないのにおかしいじゃないですか?」
と言うと
「定刻の20分前が締め切りなので20:10の20分前に締め切り、
 すでにキャンセル待ちのお客様に席をお渡ししておりますので乗れません」
と言うのです。

「そんなことどこにも書いていないのにどういうことですか?
 私が調べたサイトにはどこにも定刻の20分前とは書いてなかったです。
 どこに書いてあるというんですか?」
と言うと
「おそらく遅延のお知らせメールなどには書いてあります」
と言うのですが、そもそも遅延のメールは来ていませんでした。
そのことを伝えると、
「メールアドレスを登録しなかったんじゃないですか?」
とまで言われ、
ちゃんと調べてくれることもなく私の落ち度と決めつけられたような対応でした。
とても納得などできませんでしたが、満席なので何を言ってもどうにもなりません。

みんなに力を貸してもらってようやく確保した大切な席を失ったなんて、
申し訳ないし不安だし、震えが止まりませんでした。

20:50の後の最終便のキャンセル待ちに入れてもらい、
21時まで待つように言われました。
ただし、私の前にすでに4〜5人のキャンセル待ちの人がおり、
しかもキャセル待ち以前の問題として、客席が足りない状態になっているというのです。
絶望的な状況ということ?
キャンセル待ちなどしたことがなく、悪天候による欠航が多数ある状況で、
もう諦めるしかないと思い、新札幌のホテルに予約を入れながら
21時を待ちました。

結果、21時の便に乗ることができましたが、
待っている間の不安がパニックを引き起こしたようで、
飛行機に乗ってる間もセントレアからの運転中も、
動悸がどんどん激しくなってきて、息も苦しくなってきました。
少しでも早く帰ろうと高速を選んだこともよくなかったのかもしれませんが、
休みたくても休む場所もなく、
とにかくしっかり運転しなくちゃと必死で帰って来ました。


カウンターのスタッフが言う通り、
「チェックインの期限が(遅延したとしても)定刻の出発時間の20分前」
という記載がどこかに書いてあるとしても、
ここまでしっかり調べている私が見落とすとしたら、
そんなところにしか書いていないことだって問題じゃないのか?と思っていました。

今日、電話で説明してくれたスタッフの方は、
「どこにも定刻の20分前という記載はありませんし、
 実際は出発時刻の20分前がチェックインの締め切り時刻なので、
 お客様がカウンターにお越し下さった20時25分ごろであれば締め切り前であるのが正しく、
 20:05にキャンセル待ちのお客様に席をお譲りしたのはこちらの落ち度でした」
と言われました。


いくら天候が悪く、航空会社の方も大変だったとはいえ、
こちらも大変な思いをして確保した席をなんの非もないのにキャンセルされ、
カウンターのスタッフの言うことと私の確認した内容が違うのに、
私に落ち度があると言わんばかりの対応であしらわれたことは
どうしても謝罪の言葉だけで許すことなどできませんでした。


「定刻の20分前に締め切りと書いてありますし、
 すでに他のお客様に席をお渡ししたので乗れません」
と、まるで私が悪いと言わんばかりで、途方にくれるしかなかった不安な時間も
関係各位に連絡をとったりいざという時のためにホテルを予約したり、
慌ただしくしながらなんとかやりすごした時間はなぜ必要だったのでしょう。

私が悪いと決めつけ何もしてくれなかったスタッフの対応もあって、
謝罪の言葉で納得できるような気持ちではないと伝え、
再度、連絡してくれることを約束してもらいました。

どうしても許せない私が悪いの?許さなくちゃいけないの?

そもそも、人の買ったものを勝手に他の人に譲ってしまったことに対して
謝罪の言葉だけって普通の対応なの?

疑問や不満がいっぱいで眠れそうもありません。

# by Hifumiffy | 2019-09-10 22:35 | ひとりごと | Comments(0)

戦争の話を聞いた記憶

8月6日。
この日になると、毎年思い出すことがあります。

小学4年生の時、姉のクラスメイトの家によくお邪魔していました。
クラスメイトのお母様は、母よりも少し年上の方で、
母も漬物の漬け方を教えてもらったり、家族ぐるみのおつきあいでした。

ある夏の日、母と姉と一緒におうちにお邪魔していました。

その日はなぜだか覚えていないのですが、
いつも明るいおばさんが、ぽつり、ぽつりと昔の話をし始めました。

最初は「へぇ〜おばちゃん、看護婦さんだったんだぁ」とか、
「クレってどこにあるの?」「どんな字書くの?」と、
いつも通り、思った疑問を口にしては話の腰を折るようなことをしていたのですが、
そのうち、どんどん恐ろしい光景が目に浮かぶような話となり、
子供ながらにこれは黙って聞く話なんだと思いました。

おばさんが、呉に疎開していたのか住んでいたのか、よく覚えていないのですが、
ぴかどんの後、看護婦の仕事をするため、広島に向かったそうです。

向かっていると、
広島方面から人とは思えない姿をした人たちが、
ずるずると衣類を引きずりながら歩いてきた。
よくみると引きずっていたのは服ではなくて、
自分たちの皮膚だったと話してくれました。

川には亡くなった人が浮かんでいて、
水面が見えないほどだったと涙ながらに話してくれました。

あまりの凄惨さに息苦しくなり、
何も言うことができなくなりました。

今思うと、その時が最初で最後(最後かどうかわからないけど)の
戦争を体験した人のお話を直接聞く機会でした。

このお話を聞いた数年後、
今は考えられないことでしょうが、
学校で「はだしのゲン」の映画を観ました。
おばさんに聞いた話がそのまま映像になっているようで、
胸が痛くなりました。

私の母は生まれてはいたものの、幼すぎて
戦争が怖いと思った記憶はないそうです。
焼ける町を乳母車に乗せられて逃げ回った記憶はあるそうですが、
それが戦争と結びつくほどの記憶はないそうです。

父は、記憶のある年齢ではあったのですが、
疎開先での暮らしについてはよく聞かされていたのですが、
戦争で恐ろしい目にあったという話は聞いたことがありません。
話して聞かせておきたいこともあったかもしれないのですが、
幼い娘たちにそんな話はできず、
話を聞かせても良い年頃には親元を離れていたので
話すタイミングがなかったのかもしれません。

私は、戦争を体験した人の話を直接聞き、
2度とこんなことが起きないことを心底願う人の思いを聞き、
自分が過ちを起こさないようにしたいと願うようになりました。
体験した人の言葉は心に重くずしんと響きました。

戦争の話は聞いて気持ちのいいものではありません。
だけど、知っておかなくてはならないこともあると思います。
戦争を起こしたのはなぜか、誰が始めたのか、どうやって終戦を迎えたのか、
結果、誰が得をしたというのかなど、
日本人としてつらい現実も含め、知っておかねばならないと思います。

毎年、この時期になると、
原爆の話から2度と戦争が起こらないようにという話が出てきます。
年に一度、この時期だけでもいい。
戦争が起こらないように願う人の思いが、世界中に届くといいなと思います。

# by Hifumiffy | 2019-08-06 23:44 | ひとりごと | Comments(0)
今年になってから泣き言しか書いていない。


暗い気持ちになるブログなど、誰も読みたくないものでしょうが、
そもそも、読者などほとんどいないこのブログは、
私の心の整理のために書いているようなもの。


今日も泣き言を書くのです。


2月1日に単身赴任を決め込んだ父の残したものが捨てられない。
捨てる必要はないのでしょうが、
あると、見ると、悲しくなってしまうので、
片付けた方がいいんだろうとは思っている。

父が使っていたものだけじゃなく、
父のために用意したメールアドレスも捨てられない。
間接的には父が使っていたことになるメールアドレスで、
父には
「パパさんのメールアドレスとして申請しておくからね」
と伝えたことはあるのだが、
父自身は自分用にメールアドレスがあったことなど覚えていなかったろうと思う。

そんなメールアドレスではあるのだが、
父のために用意したメールアドレスなので、
それを消すことが、私にはできないのだ。




他にも整理しなければならないものがあるのだが、
それらは、いざとなったら姉に手伝ってもらえばなんとかなると思っている。
姉は思い切りよく捨ててくれる人なのである。
決して冷たい人というのではなく、
「ものは少なくしておく方がいい」という考えがあるからだ。

そんな姉の思い切りの良さを思う存分利用して、
父のものを捨てるというなんとなく辛い仕事を姉にやってもらおうとしている。
私はずるい妹なのだ。


そんな姉にはできないことの一つがメールアドレスのことなのだ。

私は個人事業をしており、事業用のドメインを持っていて、
そのドメインを利用して父のメールアドレスを用意した。
こういう作業ができるのは、うちの中では私だけなのである。

でも


つらくて捨てられない。

父宛のめーるすら、
社友会から送られてきている事務的なメールですら捨てられない私には
父のためのメールアドレスを取りやめることができない。

また胃が痛くなってきてしまう。


父が単身赴任し、母も私も寂しい思いをしているのだが、
それをお互いに口にすることも憚りながら暮らしている。

どうしたらいいかなど、相談などできるはずもなく、
一人悶々と悩みながら、今日もまた片付けることができないのである。

# by Hifumiffy | 2019-07-26 23:45 | 家族とのこと | Comments(0)

体調不良

今もまだ、父のいない毎日に寂しさが募ります。

母と二人の生活は、なんとなく気遣いあいすぎて、
気がつくと重苦しい時があります。

父が入院した昨年9月以降、日常といえば日常なのですが、
会いにいく場所がなくなってしまったこと、
帰ってくる日が永遠にこないことなど、
父がいなくなったさみしさを口にすることはお互いに避けており、
それがあまりに不自然で、心が折れそうになるのです。

母は私よりもずっとずっと悲しい思いを抱え込んでいます。
それでも毎日、がんばって生きています。
少しずつ体のあちこちに痛みが出てきたりしているようですが、
まめに病院に行って、体のメンテナンスをしてもらいながら、
元気に生きようと頑張ってくれています。

それなのに、私ときたら、情けないものです。

4月下旬、連休前からみぞおちのあたりが重苦しく、
食事をすることもつらいことがあり、
内科の先生に診てもらいました。

胃薬を変えてもらったり、漢方薬を増やしてもらったり、
少し改善したものの、起きているのが辛い日もあり、
どうにも仕事がすすみません。

もともと心配性ということもあり、
ちょっとしたことが心臓の病気じゃないか、脳の病気じゃないかと不安になってしまい、
あちらこちらの検査をしてもらってもまだ心配でしかたありません。

年齢的にも更年期障害が出てきてもおかしくないお年頃。

ですが、更年期障害の症状は思い病気が隠れている可能性もあるそうで、
いろんな病気の可能性を否定することも必要です。

胸のX線写真、胃カメラ、CT、心電図、大腸がん検査、
すべて大きな異常はなく、みぞおちあたりから上の胸のあたりの痛みの原因はわかりません。

あと、考えられるのは乳腺の詰まりや乳がんなど、
婦人科系の検査が必要なものくらいです。

辛い気持ちを抱えているからか、
とにもかくにも体のあちこちが痛むのです。
ずっとではないのが救いですが、いつ何時、辛い症状が出てしまうかと不安になってしまい、
どこにいくのも億劫で、友達と約束するのも不安です。
守れない約束になりそうで。。。

お年頃もあってのことでしょうが、体の不調が続いています。
こんなことで母に心配かけたくないのに、
こんな状態では心配かけまくりです。。。

# by Hifumiffy | 2019-07-05 01:30 | 家族とのこと | Comments(0)

ブログひとりぼっち

気がついたら、一人ぼっちになっていました。

ブログを始めた頃、
ブログを通して知り合ったブログのお友達(と勝手に思ってます)がいました。

お気に入りのブログのところに登録し、
ちょいちょい覗いていましたが、
ここ数年は、自分自身もこのブログへの投稿頻度が少なく、
他の方のブログを拝読する心の余裕もあまりなく、
特定の一人の方のブログしか読むことがない状態でした。

今年になって、



父が逝き、心が折れ、



ようやく立ち上がってみたら、
特定のお一人の方のブログが閉鎖されていました。



さみしいです。


他のリンク先を拝見してみたら、
はっきりやめますと書かれていたブログや、
やめますとは書かれていないけど、5年以上更新されていないブログばかりでした。

自分勝手に読んだり読まなかったりできるのが、
ブログのいいところなのでしょうが、
お気に入りのブログがなくなってしまったのはとてもさみしいです。

# by Hifumiffy | 2019-06-14 16:50 | ひとりごと | Comments(0)

積丹半島

毎年5月に開催される北海道のイベントに参加してきました。

イベント後に北海道の有志の方に連れて行ってもらう
積丹岬・島武意海(しまむいかいがん)
のドライブはとても心が癒されます。

今年は北海道とは思えないほどの暑さでしたが、
お天気がよく、海の透明度がいつも以上に綺麗に見えました。
積丹半島_b0060091_22590702.jpg
この海岸は、日本の渚百選 に選ばれている岬だそうです。

積丹には取材で行ったことがあります。
30年近く前に取材で連れて行ってもらった時は、
こちらの岬ではなく、神威岬(かむいみさき)の方だったと思うのですが、
どちらもとてもきれいな場所です。

美しい海と空をみているだけで、心が穏やかになれる気がします。

また来年もこの景色に会えることを願います。


# by Hifumiffy | 2019-05-30 23:11 | 旅したこと | Comments(0)

心の整理がつかぬままに

この記事は2019年2月8日に書きました。
父が亡くなり、1週間ほど経った頃でした。
公開する内容でもないと思えることでもあり、ずっと非公開にしていました。

まだまだ寂しさは募るばかりで辛いのですが、
同じような思いをされている方もいらっしゃるかもしれませんし、
心穏やかになるためには
人に話すことも必要なのかもしれないと思うようになってきたこともあり、
公開することにしました。

お話ししたかった方がブログを閉鎖されたご様子で、
もっと早く公開しておけば、
いろいろお話できたのかもしれないという思いもありました。

今更ながらですが、公開させていただきますが、
楽しいお話ではありません。
悲しい思いをされる方もいらっしゃるかもしれません。
どうぞ、ご自身のお気持ちで読むかどうかご判断ください。

ブログを閉鎖された方が来てくださる可能性もありますので
コメント不可にはしておりませんが、
このような内容の記事を掲載したことに対する批判など、
どうかご容赦くださいますようお願いいたします。

2019年5月15日 Hifumiffy




2019年2月1日の夜、父が亡くなりました。
享年83歳、数えで85歳でした。

私は2009年10月に名古屋に拠点を移すことを目的に退職し、
その後、東京の別の会社に就職し、
1年近く、週末だけ自宅に帰る生活を送りましたが、
2011年5月に個人事業を立ち上げ、名古屋で生活するようになりました。
少しでも長く、家族とともに暮らしたいと思ったからでした。

父は長い間、糖尿病を患い、失明の危機をはじめ、たくさんの病気に見舞われました。
10年くらい前には人工透析も始まり、
週に3回、朝早くに家を出て14時近くに帰ってくる生活でした。
一日置きに朝7時半に迎えに来てくれるマイクロバスに乗るため、
透析の朝は5時に起き、
一人でお茶漬けや母が前日の夜に用意してくれたサンドイッチなどを食べ、
どんな天気、気候でも、必ず7時半には家の前に母と一緒に出て車を待っていました。
大変だったと思うのですが、文句も愚痴も一言も言わず、
寒くても暑くても何も言わずに車を待っていました。

透析が始まってからもいろいろあって、脳内出血やら壊死した足の小指の切断など、
たくさんの心配を抱えながら一緒に暮らしていました。

父はそれほど口数の多い人ではありませんでしたが、
昔ながらの男尊女卑の発言も多々あるし、
人を小馬鹿にすることもよく言うし(私には)、
ほんと「小憎たらしいじいさん!」でした。
やめてと言ってるのに氷をボリボリ噛み砕くので、
「ボリボリじじい!」とののしっても知らん顔。
自分勝手なところもたくさんたくさんある父でした。

けれど父はやさしい人でした。
結婚せずに長く付き合う私の彼のことを家族同然に扱ってくれ、
彼のご両親の葬儀にも、不自由な体でありながら参列しようと一緒に行ってくれました。

父と私の彼は、よく話をしていました。
父の話はいつも小難しく、昔の話が多く、
歴史に興味なし、難しい話は苦手な娘たちはあまり話を聞いてあげませんでした。
父は息子が欲しかったのですが残念ながら娘二人でしたので、
なかなか自分の話を聞いてくれる相手がおらず、寂しい思いをしていたのかもしれません。

彼はいろんなことに興味を持つ人で、父の話を聞くのが楽しいと言っていました。
父の話を理解し、いいタイミングで相槌が打てるので、
父も彼に話をするのが楽しかったようです。



昨年の9月5日、いつものカテーテル治療のつもりで行った病院での治療がうまくいかず、
ICUに病室を移され、そこから1週間も経たないうちに
心臓の冠動脈バイパス手術をしてもらうことになりました。

父もある程度は覚悟していたかもしれないのですが、
私は9月のカテーテル治療はできない可能性もあると思いながら病院に行きました。
いざ「カテーテルが通りません」と言われ、その先のことがようやく現実となってきました。

そこからは心臓外科が担当になり、先生から
「このままでは100%死んでしまうのです。
 手術すれば80%生きられる可能性があるんです。
 0が80になるんです。受けるしかないんです。
 お父さんの場合、年齢や血管の状態から手術できないケースもあるのですが
 幸い、この病院はお父さんのような方の手術をすることが多く、
 私もお父さんの手術はできると判断しました。
 絶対大丈夫とは言えない。けれどこのままでは死んでしまうのです」
と説明されました。
その時の重い空気は忘れられません。
父の顔を見ることができず、「パパさん大丈夫?」など、陳腐なことをしか言えませんでした。

それでも父は手術を選んでくれ、その後ずっと病院での生活になってしまったけれど、
ほぼ毎日、母が通い、
数日おきに私が通い、
受験生を抱える姉もなるべく父の元に通っていました。

家にいる時よりもたくさん父と話をしました。
私が行くときは、私がくだらない話をすることがほとんどだけど、
父の昔話を聞いたり、父の考えを聞いたりしていると、
「あぁ、私はこの父の子供でうれしいなあ」
と思いました。

昨年末に、老健と呼ばれる老人保健施設に移りました。
父はとても気落ちしていました。
父方の祖母が老健に長く入り、最期を迎えたのが老健だったからかもしれません。

私たちも父にそんな思いをさせたくはなかったのですが、
家に帰るためにはどうしても階段の上り下りができる必要があったのです。
リハビリを続けられ、透析も連れて行ってもらえるところに入れてもらうしかなかったのです。

その間に、父が帰って来て困らないよう、
トイレの便器を高さの高いものに変えたり、
家の前の階段の段差を低くする工事をしてもらうことにしました。

年末、31日の夕方、父を迎えに行き、
毎年のように家族全員で紅白を見ながらしゃぶしゃぶを食べ、大晦日を過ごしました。
1日は家族全員でおせちを食べ、
いつも通り、父と母は家にいて、私たちは氏神様にお参りしながら遊びに出かけました。
夕飯はまた家族全員でカニすき。
エビカニがそれほど好きではない父はほどほどに食べていましたが、
それでも楽しい時間を過ごせたのではないかと思います。
2日はいつもは姉一家は朝早くに旦那さんの実家に行ってしまうのですが、
今年はたまたま都合が悪く、2日も一緒にすごせました。
何をするでもなく、家にみんないて、ゴロゴロしてたり何か食べてたり、
父にとっては家族と過ごす最後の時間はいつも通りの我が家だったような気がします。
この日は父は老健に戻らねばならず、門限の都合で16時には家を出ました。
これが父が家にいられた最後の時間となりました。

トイレは昨年のうちに直してもらえたので、
父は確かめるように2回くらいはトイレに行ったようです。
喜んでくれたかなぁ。

階段は年明け17日から工事開始となっていました。
工事をしてもらってみたら高さがまちまちで、これはダメ!とやり直しとなり、
本来2週間で終えるはずの工事が3週間かかることになりました。

老健に入ってから、透析の病院以外の病院に連れて行くのは家族の仕事になりました。
その際、少し時間がある時、
階段工事の最中の家の前に父を連れて来てあげたのが、
生前、父が自宅を見た最後となりました。
業者さんの車が止まっていたので、
家があまり見えなかったかもしれないのが心残りです。

父はずっとがんばってくれていましたが、
ふとした時にこんなことを言いました。

「3月まではもたんぞ。
 今月くらいはなんとかがんばれるかもしれんが」

お正月、みんなの前で
「今年は死にません。もし途中で死んじゃったらごめんなさい」
って言ってたのに。

あれは後半のことを伝えたかったからなの?
今でも真意はわかりませんが、
老健で私に言った
「今月くらいはなんとかがんばれるかも」
という言葉通り、父は2月1日に逝ってしまいました。

なんとなく嫌な感じがしたので、
1月31日からの出張を2月1日からにし、
1日の朝、父の様子を見てから行くことにしました。

朝から血圧が低く、寝ているという父。
苦しそうに唸ったりしながら目を開けることなく寝ていました。
呼んでも返事がなく、目を開けてくれません。
今までもたまにそんなことはありましたが、
今日は少し様子が違うような・・・
手を握ったら胸が痛いのか、私の手をぎゅーっと力強く握りしめて来ました。
こんなことはあまりなかったので少し驚きましたが、
また午後になったら起きるかな?
と思うことにして父の元を離れ、北海道に向かいました。

その後、母と電話でやりとりし、
なんとなく様子がおかしいような気がしましたが、すでに旭川から北見に移動中。
すぐには帰れません。

夜、20時55分に電話をした時、母が取り乱しかけていました。
おそらく帰り際の父の様子がよくなかったんだと思いました。
その後、私は夕食を食べに外出しました。

22時32分、母から父危篤の電話がありました。
彼に電話で伝え、老健に行ってもらいました。
そこから私は名古屋に帰るための手配を始めました。
その日のうちに帰ることはできませんが、一刻も早く帰れるよう、
仲間が一生懸命調べ、動き、手配してくれました。
北見から札幌への深夜バスを待つことになりました。

23時42分、姉からの電話がなりました。絶望しかありませんでした。
父が亡くなったことの連絡と、解剖するかどうかの確認でした。

そこからは泣かないように泣かないようにと思いながら、
名古屋まで移動しました。

家に着くと、こらえきれず大声で泣きました。
父の死に目に立ち会えなかったひどい娘です。
父の様子がおかしくなってきたことに気づいていたし、
嫌な予感もありました。
医学を勉強していないなりに、父の最期が近いことを感じていました。
それでも自分のことを優先し出かけてしまい、出先で父の死を知るなんて。

なんのために帰って来たのか、謝っても謝りたくても父はいません。
後悔しかないのです。
精一杯やってきたとは思えないのです。
最期に父のそばにいないなんて、親不孝すぎるのです。

父の死に顔は安らかでした。
苦しかったと思うけど、その時はもう安らかな顔になっていました。
前の日に握ってくれた手も、熱があった額も、ひんやり冷たく、
さすってあげても暖かくなることはありませんでした。

父に会いたいです。父と話しがしたいです。
しばらくはかなわないけど、
いつか私も父と同じところに行くときになったら、
また父の子供にしてください。
言い合いながらも仲良し親子でいたいのです。

長い間ありがとうね。パパさん、大好きだよ!

# by Hifumiffy | 2019-02-08 13:41 | 家族とのこと | Comments(0)

2007年桜とともに…


by Hifumiffy