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心の整理がつかぬままに

この記事は2019年2月8日に書きました。
父が亡くなり、1週間ほど経った頃でした。
公開する内容でもないと思えることでもあり、ずっと非公開にしていました。

まだまだ寂しさは募るばかりで辛いのですが、
同じような思いをされている方もいらっしゃるかもしれませんし、
心穏やかになるためには
人に話すことも必要なのかもしれないと思うようになってきたこともあり、
公開することにしました。

お話ししたかった方がブログを閉鎖されたご様子で、
もっと早く公開しておけば、
いろいろお話できたのかもしれないという思いもありました。

今更ながらですが、公開させていただきますが、
楽しいお話ではありません。
悲しい思いをされる方もいらっしゃるかもしれません。
どうぞ、ご自身のお気持ちで読むかどうかご判断ください。

ブログを閉鎖された方が来てくださる可能性もありますので
コメント不可にはしておりませんが、
このような内容の記事を掲載したことに対する批判など、
どうかご容赦くださいますようお願いいたします。

2019年5月15日 Hifumiffy




2019年2月1日の夜、父が亡くなりました。
享年83歳、数えで85歳でした。

私は2009年10月に名古屋に拠点を移すことを目的に退職し、
その後、東京の別の会社に就職し、
1年近く、週末だけ自宅に帰る生活を送りましたが、
2011年5月に個人事業を立ち上げ、名古屋で生活するようになりました。
少しでも長く、家族とともに暮らしたいと思ったからでした。

父は長い間、糖尿病を患い、失明の危機をはじめ、たくさんの病気に見舞われました。
10年くらい前には人工透析も始まり、
週に3回、朝早くに家を出て14時近くに帰ってくる生活でした。
一日置きに朝7時半に迎えに来てくれるマイクロバスに乗るため、
透析の朝は5時に起き、
一人でお茶漬けや母が前日の夜に用意してくれたサンドイッチなどを食べ、
どんな天気、気候でも、必ず7時半には家の前に母と一緒に出て車を待っていました。
大変だったと思うのですが、文句も愚痴も一言も言わず、
寒くても暑くても何も言わずに車を待っていました。

透析が始まってからもいろいろあって、脳内出血やら壊死した足の小指の切断など、
たくさんの心配を抱えながら一緒に暮らしていました。

父はそれほど口数の多い人ではありませんでしたが、
昔ながらの男尊女卑の発言も多々あるし、
人を小馬鹿にすることもよく言うし(私には)、
ほんと「小憎たらしいじいさん!」でした。
やめてと言ってるのに氷をボリボリ噛み砕くので、
「ボリボリじじい!」とののしっても知らん顔。
自分勝手なところもたくさんたくさんある父でした。

けれど父はやさしい人でした。
結婚せずに長く付き合う私の彼のことを家族同然に扱ってくれ、
彼のご両親の葬儀にも、不自由な体でありながら参列しようと一緒に行ってくれました。

父と私の彼は、よく話をしていました。
父の話はいつも小難しく、昔の話が多く、
歴史に興味なし、難しい話は苦手な娘たちはあまり話を聞いてあげませんでした。
父は息子が欲しかったのですが残念ながら娘二人でしたので、
なかなか自分の話を聞いてくれる相手がおらず、寂しい思いをしていたのかもしれません。

彼はいろんなことに興味を持つ人で、父の話を聞くのが楽しいと言っていました。
父の話を理解し、いいタイミングで相槌が打てるので、
父も彼に話をするのが楽しかったようです。



昨年の9月5日、いつものカテーテル治療のつもりで行った病院での治療がうまくいかず、
ICUに病室を移され、そこから1週間も経たないうちに
心臓の冠動脈バイパス手術をしてもらうことになりました。

父もある程度は覚悟していたかもしれないのですが、
私は9月のカテーテル治療はできない可能性もあると思いながら病院に行きました。
いざ「カテーテルが通りません」と言われ、その先のことがようやく現実となってきました。

そこからは心臓外科が担当になり、先生から
「このままでは100%死んでしまうのです。
 手術すれば80%生きられる可能性があるんです。
 0が80になるんです。受けるしかないんです。
 お父さんの場合、年齢や血管の状態から手術できないケースもあるのですが
 幸い、この病院はお父さんのような方の手術をすることが多く、
 私もお父さんの手術はできると判断しました。
 絶対大丈夫とは言えない。けれどこのままでは死んでしまうのです」
と説明されました。
その時の重い空気は忘れられません。
父の顔を見ることができず、「パパさん大丈夫?」など、陳腐なことをしか言えませんでした。

それでも父は手術を選んでくれ、その後ずっと病院での生活になってしまったけれど、
ほぼ毎日、母が通い、
数日おきに私が通い、
受験生を抱える姉もなるべく父の元に通っていました。

家にいる時よりもたくさん父と話をしました。
私が行くときは、私がくだらない話をすることがほとんどだけど、
父の昔話を聞いたり、父の考えを聞いたりしていると、
「あぁ、私はこの父の子供でうれしいなあ」
と思いました。

昨年末に、老健と呼ばれる老人保健施設に移りました。
父はとても気落ちしていました。
父方の祖母が老健に長く入り、最期を迎えたのが老健だったからかもしれません。

私たちも父にそんな思いをさせたくはなかったのですが、
家に帰るためにはどうしても階段の上り下りができる必要があったのです。
リハビリを続けられ、透析も連れて行ってもらえるところに入れてもらうしかなかったのです。

その間に、父が帰って来て困らないよう、
トイレの便器を高さの高いものに変えたり、
家の前の階段の段差を低くする工事をしてもらうことにしました。

年末、31日の夕方、父を迎えに行き、
毎年のように家族全員で紅白を見ながらしゃぶしゃぶを食べ、大晦日を過ごしました。
1日は家族全員でおせちを食べ、
いつも通り、父と母は家にいて、私たちは氏神様にお参りしながら遊びに出かけました。
夕飯はまた家族全員でカニすき。
エビカニがそれほど好きではない父はほどほどに食べていましたが、
それでも楽しい時間を過ごせたのではないかと思います。
2日はいつもは姉一家は朝早くに旦那さんの実家に行ってしまうのですが、
今年はたまたま都合が悪く、2日も一緒にすごせました。
何をするでもなく、家にみんないて、ゴロゴロしてたり何か食べてたり、
父にとっては家族と過ごす最後の時間はいつも通りの我が家だったような気がします。
この日は父は老健に戻らねばならず、門限の都合で16時には家を出ました。
これが父が家にいられた最後の時間となりました。

トイレは昨年のうちに直してもらえたので、
父は確かめるように2回くらいはトイレに行ったようです。
喜んでくれたかなぁ。

階段は年明け17日から工事開始となっていました。
工事をしてもらってみたら高さがまちまちで、これはダメ!とやり直しとなり、
本来2週間で終えるはずの工事が3週間かかることになりました。

老健に入ってから、透析の病院以外の病院に連れて行くのは家族の仕事になりました。
その際、少し時間がある時、
階段工事の最中の家の前に父を連れて来てあげたのが、
生前、父が自宅を見た最後となりました。
業者さんの車が止まっていたので、
家があまり見えなかったかもしれないのが心残りです。

父はずっとがんばってくれていましたが、
ふとした時にこんなことを言いました。

「3月まではもたんぞ。
 今月くらいはなんとかがんばれるかもしれんが」

お正月、みんなの前で
「今年は死にません。もし途中で死んじゃったらごめんなさい」
って言ってたのに。

あれは後半のことを伝えたかったからなの?
今でも真意はわかりませんが、
老健で私に言った
「今月くらいはなんとかがんばれるかも」
という言葉通り、父は2月1日に逝ってしまいました。

なんとなく嫌な感じがしたので、
1月31日からの出張を2月1日からにし、
1日の朝、父の様子を見てから行くことにしました。

朝から血圧が低く、寝ているという父。
苦しそうに唸ったりしながら目を開けることなく寝ていました。
呼んでも返事がなく、目を開けてくれません。
今までもたまにそんなことはありましたが、
今日は少し様子が違うような・・・
手を握ったら胸が痛いのか、私の手をぎゅーっと力強く握りしめて来ました。
こんなことはあまりなかったので少し驚きましたが、
また午後になったら起きるかな?
と思うことにして父の元を離れ、北海道に向かいました。

その後、母と電話でやりとりし、
なんとなく様子がおかしいような気がしましたが、すでに旭川から北見に移動中。
すぐには帰れません。

夜、20時55分に電話をした時、母が取り乱しかけていました。
おそらく帰り際の父の様子がよくなかったんだと思いました。
その後、私は夕食を食べに外出しました。

22時32分、母から父危篤の電話がありました。
彼に電話で伝え、老健に行ってもらいました。
そこから私は名古屋に帰るための手配を始めました。
その日のうちに帰ることはできませんが、一刻も早く帰れるよう、
仲間が一生懸命調べ、動き、手配してくれました。
北見から札幌への深夜バスを待つことになりました。

23時42分、姉からの電話がなりました。絶望しかありませんでした。
父が亡くなったことの連絡と、解剖するかどうかの確認でした。

そこからは泣かないように泣かないようにと思いながら、
名古屋まで移動しました。

家に着くと、こらえきれず大声で泣きました。
父の死に目に立ち会えなかったひどい娘です。
父の様子がおかしくなってきたことに気づいていたし、
嫌な予感もありました。
医学を勉強していないなりに、父の最期が近いことを感じていました。
それでも自分のことを優先し出かけてしまい、出先で父の死を知るなんて。

なんのために帰って来たのか、謝っても謝りたくても父はいません。
後悔しかないのです。
精一杯やってきたとは思えないのです。
最期に父のそばにいないなんて、親不孝すぎるのです。

父の死に顔は安らかでした。
苦しかったと思うけど、その時はもう安らかな顔になっていました。
前の日に握ってくれた手も、熱があった額も、ひんやり冷たく、
さすってあげても暖かくなることはありませんでした。

父に会いたいです。父と話しがしたいです。
しばらくはかなわないけど、
いつか私も父と同じところに行くときになったら、
また父の子供にしてください。
言い合いながらも仲良し親子でいたいのです。

長い間ありがとうね。パパさん、大好きだよ!

by Hifumiffy | 2019-02-08 13:41 | 家族とのこと | Comments(0)

2007年桜とともに…


by Hifumiffy